1. 冨士講とは?

古代以来の山岳信仰により、中世には富士山は修験道の場となり、また、富士山を眺望できる地に多くの浅間神社が作られました。江戸初期に修験者畫行東覚(かくぎょうとうかく)(角行、長谷川武邦1541-1646)が江戸の人々に富士信仰をひろめると、数代を経て、日常道徳を大切にすることを説いた食行身録(じきぎょうみろく)(伊藤伊兵衛1671-1733)以後、多くの冨士講集団が生まれました。北区域でも複数の冨士講があり、現在も十条と田端で冨士講が存続しています。
十条の冨士講は、身禄派の滝野川丸参伊藤元講(たきのがわまるさんいとうもとこう)の枝講で、信仰道具「御身抜箱(おみぬきばこ)」の箱書から、文政元年(1818)には活動していたことがわかります。滝野川の講が廃絶したのちも、十条地域で継続してきました。現在も、年に数回の「月拝み(つきおがみ)」を行うほか、中十条2丁目の十条冨士塚では、富士山の山開きにあたる6月30日・7月1日に大祭が行われます。塚の下のオカリヤ(仮屋)に講中の礼拝対象である御三幅(ごさんぷく)を安置し、縁起物の麦藁蛇(むぎわらじゃ)や護符などが頒布されます。十条地域の人々には「お冨士さん」として親しまれており、塚北側のフジサンロードには多数の露店が出て賑わいます。

冨士講の半纏

2. 十条冨士塚とは?

十条冨士塚(じゅうじょうふじづか)は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。現在も、これを信仰対象として毎年6月30日・7月1日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、山詣者は、頂上の石祠(せきし)を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、30数基あります。銘文(めいぶん)によれば遅くとも、天保11年(1840)10月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
これらのうち、鳥居や頂上の石祠など16基は明治14年(1881)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄(じきぎょうみろく)、本名伊藤伊兵衛の150回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。形状は、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも富士山の五合目近くの小御岳神社(こみたけじんじゃ)の石祠を置いています。また、石段の左右には登山道の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。

3. 十条冨士講の伝統

江戸時代半ば以後に隆盛し、江戸808講といわれるほど数多く誕生した冨士講は、富士山を神聖視する庶民が独自に結成した信仰結社です。その教祖は、戦国時代から江戸時代初期の人とされる行者畫行藤佛です。
畫行の素性については多くの謎が残されていますが、広く伝えられたところでは、本名を長谷川左近武邦といい、天文10年(1541)正月に肥前国長崎に生をうけたとされています。また、幼くして北斗星のお告げにあって神仏の導きにしたがうべきことを感得し、18歳にして初めて諸国巡礼の旅に出たとも伝えられています。畫行が巡礼に出た理由は、終わりの見えない乱世を神仏の力で終息させ、平和を実現したいと熱願していたためです。
ふるさと長崎を後にした畫行は、その後、常陸国茨城郡水戸や陸奥国磐前郡遠谷村等を廻り、最後に富士山麗の人穴という神秘的な洞窟にいたります。そして、そこで角柱に爪立ちしての断食修行を行いつつ富士山への登拝を繰り返し、ついには冨士仙元大菩薩に化現した万物の産みの親、すなわち富士山より万民救済に要する数々の呪文や教えを授かりました。また、元和六年(1620)7月には、「つきたおし」という名の疫病が蔓延する江戸市中に入り、富士山から授かった呪文をもって多数の病人を救済したのだそうです。
さて、こうした偉業をなした畫行の法脈は、その後、日旺(黒野運平)、旺心(赤景庄左衛門)、月旺(前野利兵衛)の順に代々継承されました。ところが、その法脈は後に二つに分かれ、月行(菊田廣道)と月心(村上光清)とがそれぞれ第五世として並立することになります。そして、この二つの教派のうち前者を継いだのが食行身禄でした。食行身禄は本名を伊藤伊兵衛といい、伊勢国一志郡川上村の農家に生まれました。彼は幼くして江戸の呉服商に奉公し、成長してからは油を売って巨万の富を得たと言われています。ただし、彼はその成功に威を張ることなく、同郷の人の勧めで月行の弟子となってからは財を捨てて精進したのでした。そして、享保18年(1733)6月、彼は突如、母なる富士山中で入定仏になることを決意します。
身禄が入定を決意した背景には、一見華やかで豊かに見える江戸社会の陰の部分があったとされています。その頃はちょうど、後世には明君と称えられた徳川吉宗公の治世でしたが、人びとが鼓腹をうって泰平の世を謳歌していると評された時代の裏側には、実は、年貢の増徴や物価の高騰、あるいは度重なる飢饉にあえぐ貧しい庶民の暮らしもあったのです。身禄は、こうした貧しい人びと全てを入定仏になって救済しようと考えたのでした。私たちの十条伊藤講も、元来はそうした身禄の万民救済思想に共鳴する人びとが結成したものです。十条伊藤元講の結成時期は定かでありませんが、私たちが所有する冨士塚の頂上には明治14年建立の石祠があり、そこには「明和3丙戌年12月吉日 醍醐久□□」と刻されています。「醍醐久□□」とあるのは、江戸時代に先達・講元を世襲したとされる醍醐久兵衛のことと思われます。そして、この石祠は、久兵衛が明和3年(1766)12月に建立したものを明治14年に新しく建て替えたものではなかったかと推察されます。そうしたことから、私たち講中は、十条伊藤元講が明和3年前後には既に結成されていたものと考えています。
ところで、十条冨士塚では、例年、富士山の山開きに当たる7月1日を大祭日と定め、前日より祭礼を執行しています。そして、たくさんの出店で賑わう大祭日には、お産や子育てにも霊験ありとされる当社に多くの方が登拝し、出店で売られる麦藁蛇(厄除けの護符)を買い求めていかれます。この麦藁蛇については、江戸幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』の「冨士浅間社」という項に由来を示す次のような記事があります。
例祭毎年6月朔日。(中略)麦藁ヲモテ作リシ蛇ヲ売ル。是ハ宝永ノ頃上駒込村ノ民三左衛門ナルモノ売ハジム。或書ニ、宝永年中近郷大ニ疫病流行セシニ。此蛇ヲ買モテルモノハ。其一家疫病ノ患ナカリシ故。モテハヤサレ。今ハ当所ノ名物トナレリト。また、『江戸名所図会』にも「毎歳六月朔日、祭礼にて前夜より詣人多く道路に充り、此の産物として麦藁細工の蛇(中略)を鬻く」とあります。創始者については諸説あり定かでないようですが、麦藁蛇は、冨士塚とともに江戸時代の祭礼の雰囲気や信仰のあり方を今に伝える貴重な文化遺産であるともいえましょう。
最後になりますが、私たち十条冨士講中は、こうした伝統の正統な継承者として、十条地域に育まれた郷土の思想を大切に受け継いでゆきたいと考えています。 (十条伊藤元講)

拝みの様子

4. 富士山の火神

富士山は、古来より山岳信仰の対象とされ、とりわけ江戸時代には多くの信仰登山者で賑いました。その祭神は、時に「浅間大神」であったり、「木花開耶姫命」であったりしました。
平安時代、富士山の火を鎮めるために浅間大神を奉斉した頃の伝説があります。かぐや姫は心を通わす帝との別れに臨んで、帝に不老不死の薬と天の羽衣、帝を幕う心を綴った文を贈った。帝はかぐや姫のいないこの世を疎み、それらを日本で一番高い山で焼くように命じた。それからその山は、「不死の山」と呼ばれ、常に煙が上がるようになった。かぐや姫と帝の悲恋は、富士山頂から絶えることなく立ち上る煙となって結実します。浅間大神が泰斉された由来を抒情的に伝えています。
江戸時代後期の寛政3年(1791)には、富士山麗の甲斐国吉田口でも浅間大神に代わって木花開耶姫命を主たる祭神とする意識が生じています。富士講信仰と縁の深い場所ですので、丸参十条冨士講にも関わりは浅くはありません。丸参十条冨士講が「御三幅」と称してご神体としている掛け軸にも、真中上部に木花開耶姫命、右側に富士講信仰の教祖とされる書行藤仏、左側に身禄派富士講信仰が庶民に広く普及するきっかけとなった食行身禄が描かれています。この身禄の教えを記した経典に「お傳え」があります。富士山は天地開闢の御山で万物出生の根元、万法の御本地である。神代のこと、天照大御神の孫である邇邇芸命には木花開耶姫命という后がいた。その後、この方は富士山に鎮座して守護神仙元大菩薩となられた。人の代になってからは御山の雲霧は晴れなかったが、遂に孝礼元年庚申6月1日卯の刻、雲霧は俄かに晴れた。そして現れたその姿を霊山と名づけた。…一度でも礼拝する信心ある者は、諸所の病難を払い、女人は安産すること間違いない。
実は、このお伝えのもとになったのは『日本書記』です。桜花のように美しかった木花開耶姫命は、邇邇芸命に求愛され、その子供を身篭った。しかし、一夜にして身篭ったことに疑念を持った邇邇芸命は、木花開耶姫命を不貞であるとなじった。木花開耶姫命は、自分の身の潔白であることを証明するために、産室に火をつけ、その火中で無事に出産した。この説話によって木花開耶姫命は火の神とされ、火山である富士山に祀られるようになりました。そして、安産の神、子育ての神として信仰されるようになったのです。かつて十条冨士神社の大祭には、混雑時を避けてくる子供連れの参詣者が多くありました。十条冨士神社をお産や子育ての神として参詣する人々が、木花開耶姫命の伝承を今に伝えているのかもしれません。  (十条伊藤元講)

※解説協力:東京都北区教育委員会